「強制連行」について、かつては、あたかも奴隷階級の朝鮮人が、強制労働のために連れてこられたかのように言われていた。 しかしその正体は、同胞として課せられていた義務にすぎなかった。すなわち兵役に就かなかった者に、その代替として課せられた労働義務(徴用)にすぎなかったのである。
ゆえにそこにはなんら特権的被害者性は存在しないのであって、だから鄭大均も次のように述べているのである。
だが、エスニック日本人の男たちは戦場に送られていたのであり、朝鮮人の労務動員とはそれを代替するものであった。 兵士として戦場に送られることに比べて、炭鉱や建設現場に送り込まれ、重労働を強いられることが、より「不条理」であるとか「不幸」であると、私たちはいうことができるのだろうか。日本人の場合だって、1938年に成立した国家総動員法により、115歳から45歳までの男子と6歳から25歳までの女子は徴用の対象となったのであり、それは強制的なものであった。(中略)応じない場合には、兵役法違反や国家総動員法違反として処罰され、「非国民」として社会的制裁を受けたのである。(『在日・強制連行の神話』62頁)
日本帝国時代には、日本人も朝鮮人も日本国民だったのであり、徴兵であれ、徴用であれ、戦時期に国民に課せられた運命共同性のようなものだった。戦場に送られた男たちのことを無視して、朝鮮人の男たちの被害者性を特権的に語るのが強制連行論であるが、それはあきれるほどの偏向ではないのか。出典:http://ironna.jp/article/1081
徴用の現場において、朝鮮人徴用工の労働条件がよくなかったことは否定しないが、鄭大均ものべているように、それは230万の日本兵戦死者との比較で語られるべきものであり、そこから考えれば朝鮮人が日本人に比べて特別ひどい待遇を受けたと言うことはできないはずなのである。
朝鮮人はそうして国民の義務として労務供出していただけにもかかわらず、なぜ特権的な犠牲者性を帯びたのかといえば、戦後いつしか「植民地支配」について、日本人と朝鮮人が非同胞的関係にあったかのような錯覚が生じていたからである。 あたかも朝鮮人が被支配階級の奴隷のような存在であり、日本人によって奴隷的に酷使されていたかのような錯覚が生じていたからである。(→「強制連行」問題とは何か) (→『はだしのゲン』にみる朝鮮人強制連行)(→つかこうへいが描いた「強制連行」)
ちなみにいわゆる「従軍慰安婦」の犠牲者性も、この「非同胞性」という錯覚に由来している。(→朝鮮半島を「紀伊半島」に置き換えるとわかる「従軍慰安婦」「強制連行」問題のおかしさ)(→つかこうへいが描いた従軍慰安婦)
このように歴史問題における朝鮮人の特権的犠牲者性はすべて非同胞という錯覚から生じているので、そのことを念頭に置いておくと問題の構造が理解しやすくなるのではないかと思う。
(終)
〔参考文献〕
『在日・強制連行の神話』 鄭大均 2004年