多文化主義への懐疑 ― 私の原点『大草原の小さな家』

振り返ってみると、1970年生である筆者が多文化主義や「多様性」について疑問をもったのは、1970年代後半、NHKで放送されていた『大草原の小さな家』というアメリカのテレビドラマがきっかけだったと思う。

当時の筆者は子供ながらに、この物語が西部開拓時代の物語であるということ、つまり日本の時代劇のようなものであることはなんとなく認識していて、『小さな家』は、日本の時代劇と同様に、「われわれの物語」としてアメリカ人にずっと愛されつづけていくのだろうと漠然と考えていた。

しかしそこから時代がすすんで、マイケル・ジャクソンなどが目に触れるようになった頃(1980年代中盤)、ふと気づいたのは、さまざまな人種や移民によって構成されている「アメリカ人」にとって『小さな家』は、「われわれの物語」ではないということだった。
つまり『小さな家』が「われわれの物語」であるのは、一定の集団(大雑把に言うと白人)にとってであって、それ以外にとってそれは「われわれとは関係のない過去」、すなわちアメリカという国の上に存在した過去の一場面にすぎないということだった。

こうして子供時代に『小さな家』でアメリカを原体験した筆者は、その後のアメリカ社会をみながら、次のような疑問をもっていた。

(イ) 『小さな家』が自分とは無関係の過去であり、そこに愛着がない「アメリカ人」の目に『小さな家』はどう映るのか。
(ロ) アメリカ人とはいったい誰なのか。アメリカ社会は何によって結合し、維持されているのか。その原理は何か。

(イ)についてはっきりとした説明を聞いた記憶はないものの、(ロ)については、次のように説明されていたと思う。すなわち、アメリカ人とは自由平等のシンボル=星条旗に忠誠を誓った人々である、といった種類の説明である。

こうした説明は、なんとなく建前的で空々しく感じられはしたものの、オリンピックのとき等で目にする「USAコール」は、まさに社会統合の現れのように筆者には見えたし、そしてそうした現実を見せられた以上、理屈はどうあれ、移民を含めた彼らは統合された国民なのだろうと筆者は認めざるをえなかった。

しかし、そうして見せられていた「統合されたアメリカ」というのは、ごく一面的なものでしかないことがわかってくる。

その後筆者が知ったのは、実際のアメリカは統合されておらず、人種や宗教ごとに分かれているという事実だった。しかもそれは、単に居住地域がモザイク状になっているのみならず、意識から分断しているというのである。

ハンチントンはこうした意識の分断がうまれる原因を『分断されるアメリカ』(2004年)にて次のように説明している。

すなわち、人間とは「われわれ」とは何者かにこだわる存在であり、その「われわれ」は他者との違いによって定義される。「われわれ」は何が共通点であり、他者とどこが異なっているのかによって決まってくる。その結果、「われわれ」と「かれら」を隔てるもの――人種や言語、宗教など――に沿って、社会に心理的な断層線(フォルトライン)が形成される。このように「多様性」を重んじるかぎり、個人や集団のアイデンティティを重んじる限り、多文化社会における断層線は避けることはできない。それが人間の本質だからだ。

イギリスからの入植以来、アメリカ社会の中心を一貫して占めてきたアングロ-プロテスタント文化に由来する民族的・人種的・文化的なアイデンティティは、公民権運動以降、アメリカ社会において中心的な地位を追われていき、それに代わって、文化集団ごとの断層線がアメリカ社会に形成されるようになった。そうして今日のアメリカ社会では、文化的な共通基盤は失われ、「星条旗への忠誠」「自由平等」のような政治原則しか共通基盤がなくなっている。9.11 など「国家的脅威」に直面した時には団結するものの、脅威がない平時にはアイデンティティ集団ごとにバラバラの国になってしまっている――と。

さらに、社会の共通基盤が政治原則のみとなってしまった現代アメリカ社会の脆弱性について、ハンチントンは次のように述べる。

社会を長期的に保つには、「星条旗への忠誠」「自由平等という価値」といった政治原則だけでは不十分である。なぜならソ連邦解体などでもわかるように、政治的な主義主張(イデオロギー)は容易に転向可能だからだ。 集団にとってもっとも基本的で安定的な結合原理は、その集団ともっとも分かちがたく結びついているもの、すなわちその集団がもつ歴史的な記憶=共通の思い出なのだ、と。

国とは、ベネディクト・アンダーソンが言ったように、想像された共同体だが、より明確に言えば、それは記憶された共同体であり、想像された歴史を持つ共同体であって、それは共同体そのものの歴史的な記憶によって定義されている。どんな国も、その国の歴史なしには存在し得ない。国民の心には苦難や功績、英雄や悪漢、敗北や勝利の共通の思い出が宿っていなければならないのだ。(169頁)

人は政治的な原則の中に、身内と友人、血縁関係、文化と国民性がもたらす深い感情的な意義や意味を見出すことはないだろう。こうした強い愛着は実際には何ら根拠がないのかもしれない。だが、それらは意味のある共同体を求める人間の深い願望を満足させるものだ。「われわれはみなアメリカの信条を信じるリベラルな民主主義者」だという考えが、その欲求を満足させることはないだろう。(469頁)

今日では「アメリカ人」と一口に言っても、『小さな家』に郷愁を感じる者、奴隷制の歴史にシンパシーを感じる者、インディアンの文化を守りたい者、移民元の歴史文化に帰属意識をもつ者等々、それぞれが別々に存在している。それぞれの集団が積み重ねてきた歴史(民族の共通の思い出)が国民意識よりも優先することによって、アメリカ社会は本質的に分断されている。 いまやアメリカは、複数の文化集団が、「アメリカの信条」(自由平等勤勉等々)と呼ばれる政治原則によって、かろうじて結びついている脆弱な社会となっている。

この「アメリカの信条」が、政治原則でありながらも共産主義などの単なる政治イデオロギーと異なるのは、それがイギリスからの入植の歴史やアングロ-プロテスタント文化に由来している、つまりアメリカ建国の歴史への「共通の思い出」「強い愛着」と結びついているからである。しかし今後、建国の歴史に愛着を持たない人々が社会の主流となれば、「信条」の存続も危うくなるだろう。なぜなら「信条」が、感情を伴わない単なる理屈(イデオロギー)になりさがるからである。単なる理屈にすぎないものが、世代を超えて守られていく保証はない。やがてこのアメリカ社会は本質的な変化に直面するであろう。

――ハンチントンはアメリカの未来について、このように悲観的に考えているようである。

では今後、アメリカという国はいったいどうなっていくのであろうか。(以下筆者の予測になる)

アメリカは多文化主義・多様性の国である。すべての文化を平等に尊重しようというその理念は素晴らしい。

しかしそれが招いたのは、一つの国民として統合され、その中で豊かな多文化社会が花開く、というものではなかった。多文化主義がまねいたのは、国際社会と相似形の、断層線(国境)で隔てられた文化集団(民族)ごとの対等な相克だった。

――では相克の結果、アメリカという国はどうなるのか。

もし、どれかひとつの文化集団が勝利すれば、それが新しいアメリカの主となるだろう。かつてインディアンが白人にとって代わられたように。(主役交代の手段が武力か民主的かという違いはこの場合たいして重要ではない)
また、もし相克がつづいて分断が深まっていくとすれば、最悪、国家分裂という事態へと進むかもしれない。ソ連が諸共和国へと分裂したように、アメリカが州や文化集団単位で分裂する可能性もないとはいえないだろう。

しかし、いずれの文化集団も勝利せず、分裂も避けられた場合は、今までのどの文化にも属さないネオ・アメリカという道があるかもしれない。  ネオ・アメリカとはなにか――それは過去と断絶した新しいアメリカである。

黒人でありながら積極差別是正措置に反対するウォード・コナーリー(Ward Connerly)は1997年、ハイフン付きのアイデンティティの言葉(○○系アメリカ人)を引き出そうとする New York Times の取材にうんざりしながら次のように答えている。  「あなたはアフリカ系アメリカ人ではないのですか」「生粋のアメリカ人だよ」(『分断されるアメリカ』23頁)。

NYTのような多文化主義的な発想からの人種配慮と、コナーリーのようにルーツを意識せずに「生粋のアメリカ人」になろうとする人々の希望は、意図は異なるものの、その目指すところはおそらく似たようなものになる。
それは人種的縛りが避けられないもの、ルーツを意識させるもの、「共通の思い出」とならないものは隅に追いやられざるを得ないということである。
実際、今日のアメリカのドラマは、ディズニーのような架空の話か、『24』のような人種に配慮した現代ドラマばかりになっている。そこに『小さな家』のようなドラマは見当たらない。

ディズニーや『24』ばかりを見つづけている現代アメリカ人の心理は、『小さな家』の世界は、古臭いどころか自分たちと無関係なものという感覚になっているのではないだろうか? つまり『小さな家』は白人たち(しかも上の世代)の思い出にすぎず、ディズニーや『24』こそが「われわれ」のアメリカだという感覚になっているのではないか??
だとすれば『小さな家』はますます遠い存在となっていくだろう。

こうした変化――白人種しか共感をもてない物語からの脱却――はNYTのような多文化主義者、およびコナーリーのような非白人の双方が歓迎することと言えるのかもしれない。

だがアメリカ人が『小さな家』という「共通の思い出」を忘却し、ディズニー『24』の世界を新しい思い出として出発しようとしているのだとすれば、それはつまり、旧アメリカ世界(文化)と現アメリカとの間に意識上の断絶、つまり断層線を時間軸の上に引こうとしてるということになる。
現代アメリカは、これまでのアメリカとの心理的繋がりを断ち切って、人種混成のネオ・アメリカという新しい国家(民族)の歴史を、また一から歩み始めようとしているのだろうか??

現在生まれつつあるものがネオ・アメリカだとしても、それは今のところ、これまでのアメリカと区別がつかないようにみえる。なぜなら現代アメリカドラマにもアメリカの古い文化の余韻は残っていて、文化も、アメリカ人意識も、「アメリカの信条」を含めて、連続しているかのように見えるからだ。

しかし旧アメリカを知る世代がいなくなれば、その余韻も消滅し、そうしてこれまでのアメリカ文化は、新しい、異質のネオ・アメリカ文化や「新しい信条」にとってかわられるはずである。
そうして新しく生まれてくるネオ・アメリカの文化や価値観がどのようなものになるのかは、誰にも予想がつかない。悪いものかもしれないし、良いものかもしれない。
しかしいずれにせよネオ・アメリカ人は、将来のどこかで、意識と文化が旧アメリカと断絶してしまったことを自覚するときがくる。だがそのとき、それを残念なことだと感じるアメリカ人はもう残っていないかもしれない。

アメリカは『小さな家』を取り戻せるだろうか。それとも別の文化集団に取って代わられるのだろうか。それとも今のままさらに分断が深化し、国家が分裂してしまうのだろうか。そのどちらでもなく、多文化主義の中に溶解してネオ・アメリカとなり、これまでのアメリカは「古代アメリカ」となって、切り離されてしまうのだろうか。

現在のアメリカ政治は『小さな家』を「われわれの歴史」と認識する人々が共和党、そうでない人々が民主党支持という様相にあり、今日のトランプ現象は、白人民族による「失地回復運動」「民族自決権」とみることができる(ホワイト・ネイティビズム)。

しかしその試みが成功するかどうかはわからない。

さて、こうしたアメリカの現状から、今後の日本を考える上での重要な示唆がえられるだろう。

まず、民族の滅亡とは、過去との意識の断絶によっておこるということである。
この「意識の断絶」は、戦争によって物理的におこるだけでなく、平和な時代の多文化主義によってもおこりうる。つまり民主的におこりうるということである。

そして日本が日本であり続けている原理も明確に説明できる。
それは、日本史が「われわれの歴史」でありつづけているからである。そこに意識の断絶がないからである。有形無形、無数の文化を抱えていられるのも、それが「われわれのもの」だからである。われわれのものだからこそ「強い愛着」が生まれる。 理屈ではなく、この無条件の「愛着」こそが、われわれの共同体、歴史、文化を維持しようとする半ば無意識の意思の源泉となっている。

だがもし今後、日本が「多様化」し、日本史が「われわれの歴史」でなくなれば、日本は断層線によって水平的に社会分断するか、あるいは「ネオ日本」化して過去と断絶するかのどちらかになるだろう。

人の意識を政策によって強制することは不可能である。 ゆえに今後一定の外国人を受け入れるとしても、人間の心理・感情を考慮しながら、自然と日本史への意識同化がなされるような受け入れ方式(戦略)を採ることが肝要になる。

もしも時間軸への同化に失敗し、日本史が「われわれの歴史」でなくなれば、すなわち圧倒的多数が日本史に帰属意識を持つという状態を失えば、日本を維持しようとする「感情」が社会から失われ、価値観の軸を失い、過去と断絶して、日本という国は質的に滅びることになるだろう。
(終)

〔参考文献〕
『分断されるアメリカ』 サミュエル・ハンチントン 2004年 ※今は文庫版が出ています  ◆楽天 ◆Amazon
『超大国の自殺』 パトリック・ブキャナン 2012年  ◆楽天 ◆Amazon