私が「同性婚」に反対する理由

私が「同性婚」に反対する理由、
それは同性婚なるものの中に「異性婚と同等に扱え」という権利(*1)の主張が含まれているように感じられるからである。 そしてそのような「権利」を認めることに疑問を感じるからである。どういうことかというと…

まず「権利」というものの性質について考えてみよう。
権利とは、まったくの他人に対して作為・不作為を強制できるという特異な性質をもつものである。
たとえば私が空き地でビー玉を拾った(先占した)とする。不思議なことにその瞬間から、日本中の人に対して「このビー玉に手を出すな」という不作為を一方的に強制することができる。これが「所有権」という権利である。

このように権利とは「契約」も経ていない赤の他人に対し、突然として一方的に作為不作為を命令するものなのである。

さて権利というものが、そうして他人に対する一方的な強制力を生じさせるものである以上、むやみやたらと認められてはならないはずのものであり、すなわちそこには何らかの根拠(正当性)が必要になるはずのものなのである。では他人に一方的に作為・不作為を命令する「権利」が認められうる根拠(正当性)とはどのようなものであろうか?

18世紀の哲学者D・ヒュームは『人間本性論』において、権利や正義(正しさ)の起源について説明している。(→ヒュームとルソーのconvention概念について

簡単に要約すると次のようになる。
権利の根拠は、社会において暗黙的一致(感覚的一致)=convention(慣習的な正しさ)が存在しているときに、その遵守を万人に強制してよいという人々の素朴で自明的な感覚にある。つまり「権利」のもつ強制力の根拠(正当性)は社会のconvention(正しさ、常識、自明性)を万人に守らせようという人々の社会的な意志にあるのである。またそうであるがゆえにconventionが存在しない領域には権利(強制力)も存在しない――これが「権利」についてヒュームの説明である。*2

たとえば先占した人に所有権を認めるという法律を整備してよい根拠は、(2番目でも3番目でもなく) 1番目に占有した者がそれを排他的に使用する資格を獲得するのは当然であるという実践的感覚が(法律以前に)conventionとして存在しているからなのである。*3

ところで…
人間の感覚は変えることができないものである。
レモンを甘いと感じることはできないし、信号機の赤と青の意味(危険と安全の感覚)を入れ替えることはできない。同様に、人間の性別が男女の二つで、子供は男女から(とくに女から)生まれるという感覚(=convention、正しさ)を変えることも当然できない。

ルネサンスの時代の絵画は、人間の感覚=ヒューマニズムを重視した「写実性」をその大きな特徴とする。数学的遠近法もこの時代に生まれた画法である。 筆者の理解では、西洋における「正しさ」の基準が、キリスト教神学(学問)からヒューマニズムへと転換しはじめたのが、このルネサンス時代である。
「正しさ」が人間と無関係に(形而上学的に)決まるのではなく、人間によって決まるものへと転換しはじめたのがこの時代である。

さて…
「王様は素敵な服をお召しだ」(『裸の王様』)
王様の前では一応そう答えはしたものの、他の場所でうっかり「裸だ」と言ったら罰せられる社会、そのような社会は果たして【自由】で、【すべての人が幸せになる社会】と言えるだろうか?(――むしろその状態を裸だと認識し、「裸だ」と表現することの方がconvention(すなわち権利)なのであり、このconventionを抑圧することこそ「権利」侵害なのではないか?) *4

「結婚とは異性間のものであり、子供は一組の男女から(とくに女から)生まれる」――この否定できない感覚(convention)の表明が罰せられる社会は果たして自由ですべての人々が幸福な社会と言えるのだろうか。

「異性婚と同等に扱え」――このような「権利」には根拠(正当性)がない。そのような「権利」を認める法律、人間に不可能なことを強いる法律は、人間(ヒューマニズム)に反している。ゆえに筆者は表題の結論をとる。
(終)

*1) 語源の話をすると、日本語の「権利」に相当する英仏独語=right、droit、Rechtのいずれにも法・権利・正しさ(適切さ)という意味が含まれている。一方、日本語の「権利」という言葉には、英仏独語にはある「正しさ・適切さ」というニュアンスが含まれていない。
*2) もっともヒュームが簡明にこのように述べているわけではないので、これは筆者なりの要約がかなり入っている。ところで本文でも説明したとおりヒュームはconventionすなわち「万人が抱く自明性の感覚」こそ、他人に作為を強制してよい「正当な力」の根拠だと考えたのであるが、筆者の理解ではルソーの一般意志論もヒュームのconventionと同じ考え方である。(→関連拙稿)
*3) 参考までに別の例でconvention(正しさ)が強制力の根拠になっていることを示してみよう: たとえば客が代金を支払ったときに店が商品を渡さなかったとする。このとき客は商品の引き渡しないし返金(作為)を「権利」として強制できるが、なぜ強制できるのだろうか。それは代金と引き換えに商品を渡すというconvention(慣習的正しさ、自明性、人間のあたりまえの感覚)が存在しているからである。このとき店側ですら商品を渡さないことは不正なことであるという感覚を持っているのであり、しかもこの感覚から逃れることはできない…この感覚(convention)こそ「強制」の「根拠」なのである。別の例。たとえば婚姻中に夫が妻に/妻が夫に不貞行為を禁ずる「権利」があるのはなぜだろうか。それは、婚姻時にはそのような行為は許されないという感覚を皆がconventionとしてもっているからである(もし乱婚の社会であればそれが不貞であるという感覚(convention)がそもそも存在しないので、ゆえにそれを禁ずる「権利」も存在しない)。――そして以上のような問題が生じたときに裁判に訴えて勝てるのは、法律がconventionに沿って制定され、裁判官もconventionに沿って判断するからである。conventionが存在しない領域には「正しさ」も存在しないし裁判で裁定することもできない―とヒュームは考えている(はずである)。
*4) 本稿におけるconventionとは習俗的な慣習のことではなく(むろん習俗的慣習も含まれるがそれは主旨ではなく)、人間の感覚的一致によって社会的に生じている「当たり前の正しさ」のことを指している。すなわちconventionとは人間の感覚からして自明的に一致するようなところに生じている実践的事実のことであり、王様の状態を「裸だ」と認識・表現することもここで言うconventionにあたる。conventionは人間の感覚に基づくので、人間はconventionに反することはできない。にもかかわらず童話の人々はここで王様の一方的な権力によってconvention(裸だという感覚)に反することを強制されている(素敵な服をお召しだと言わされている)のである。