在日差別や嫌韓問題について、次のような言説を目にすることがある。
> 日本社会には在日に対する差別意識が根強く残っている
> 今日の嫌韓現象はそれがネットを通じて露呈したもの
仮にこのような指摘が事実だとすると、日本人の間に代々「在日差別」の感情が受け継がれていなくてはならないが、 では実際「在日差別」がどれくらい受け継がれていたかを確かめるために、筆者(1970年生)が十代を過ごした1980年代の状況について、著名人二名の証言からさぐってみよう。
ひとりは日立就職差別訴訟で在日側の世話人であった佐藤勝巳氏、もうひとりは在日韓国人二世で劇作家のつかこうへい氏である。
次の引用は佐藤が1979年時点での差別反対運動について語っている部分である。
民族差別反対運動に直接疑問を抱くようになったのは1979年の東京都歯科医師会の民族差別を正す運動に参加したときからであった。
最初の疑問は、差別された当人に怒りがほとんどみられなかったことである。日立製作所から就職差別を受けた朴君は1950年生まれであるが、一世に比べると、あの一世がもつ荒々しさや逞しさはほとんどみられず、どちらかといえば、一見インテリ臭い弱々しい青年であった。しかし、子どもの頃受けた民族差別や貧しい辛い体験があったから、それがバネや怒りとなって、運動の中心に座り続けることができた。
歯科医師会から差別された女子学生は、被差別の体験もなく、貧しさもしらず、したがって怒りも見られなかった。親たちも差別に抗議する姿勢が消極的で、10年前の日立の時と大変様子が違っていた。
『在日韓国・朝鮮人に問う』1991年~鄭大均『在日韓国人の終焉』98頁
佐藤は1950年生まれの1970年代には在日はすでに被差別体験のリアリティを消失しつつあるとここで証言している。
この引用に続けて、佐藤は、この頃になるとなかなか差別事件が起きないので、運動の側が事件を「仕掛ける」という現象が見られはじめた、つまり民族差別を「仕掛け」ないと運動が持続できなくなったてきた、それはとりもなおさず、日本社会の在日を見る目に変化が生じてきた証拠である(要旨、99頁)と述べている。
次は、在日韓国人二世で劇作家のつかこうへい氏の著作『娘に語る祖国』(1990年)からの抜粋である。
それにママは昭和38年生まれの東京育ちでしたから、韓国人の差別がピンとこない世代でした。(45頁)
「いえね、実は先日、娘の言葉に驚かされましたよ。友だちが、チマチョゴリを貸してくれと言ってきたらしいんですよ。その友だちというのは、日本人なんです。どうするんだって聞いたら、結婚式のお色直しの時に着たいっていうんですって。びっくりしました。つい何年か前までは、誰もが韓国人であることを隠したがっていたのに。私達が差別され続け、怨みをつのらせえ続けたあの屈辱の時代は、いったいなんだったんでしょうね」(63頁)
上は、つか本人の回想で、昭和38年(1963年)の東京生まれの日本人は「在日差別」に対してピンとこない=あまり見聞きしていないということが示唆されている。
下は、1987年つかが訪韓する際にソウル行の大韓航空機の中で偶然となりに着席した、横浜で貿易商を営む50歳くらいの温厚な紳士・朴さんの言葉である。彼は1980年代後半に、彼が経験してきたような差別がなくなっていることに驚いているのである。
この2箇所が意味することは、1980年代ごろの若い世代には(むろん地域にもよろうが)「在日差別」はなかったということではないだろうか。
じつは1980年代に「在日差別」が薄らいだ理由はきわめて単純で、なぜなら筆者を含む1960-70年生まれの世代は在日が「無垢化」した1980年代を10代20代で迎えている世代だからである。 すなわち、この時代の在日は、(1)「植民地支配」「強制連行」という犠牲者性の強調されたこと、および(2)在日側の問題(例えば戦後の狼藉等)が隠されたことが両輪となって「無垢な被害者」として扱われるようになっていたからである。*1
鄭大均は無垢化した在日について次のように述べているが、この説明は筆者が1980年代に抱いていた感覚とも一致する。
だがその後、80年代以後の日本に見てとれるのは、むしろ本書の冒頭で紹介したホワイティングやフィールド的なイメージである。「加害者」から「被害者」へというい在日の転換に最も強い影響を与えたのはメディアの動向であり、具体的には80年代以後、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の国家犯罪を語り、在日の被害者性を語る過程で、在日は無垢化されるとともに、「被害者」や「犠牲者」の神話が実現していくのである。学校教科書や辞典の類に「朝鮮人強制連行」についての記述が登場するのも80年代以後のことである。 在日コリアンに対する「悪者」や「無法者」という言説は、今や書き言葉の世界では周縁的なものとなり、政治的に正しくない言説として封じ込められることになっているのである。(鄭大均『在日・強制連行の神話』33-34頁) (→在日が「無垢化」した1980年代)
つまり筆者ような世代の人間にとって在日とは、「植民地支配」そして戦後と、日本のせいでずっと苦しめられてきた純然たる「被害者」でしかなく、そのような時代に十代を過ごした筆者にとって「在日差別」する動機がうまれるはずがなかったのである。実際筆者は十代特有の正義感から、「謂れなき差別」を繰り返している日本の大人たちの方に怒りを感じていたくらいであった。*2
また、筆者のように在日問題に一定の関心をもっていた人間がいた一方で、近代史に興味がない、在日という存在を意識したことがない若い人も相当にいて、そういう人々がたまたま「無垢化」した在日に接触したとしても、あえて差別する理由がない。
もし仮に、在日対する嫌悪や差別意識をもつ若者がいたとしても、それは、戦後の狼藉を知る世代から聞いたり、その土地の評判など、つまり「教育や主要メディア以外のルートで耳に入ったもの」と推定され、だとするとそれには量的な限界があるし、また差別感情を発露するにしても機会は限られる。(なぜなら在日はたかだか60万程度であり、しかも相当数が通名で生活していて、目に見える在日の数自体がおのずと限られてくるため)
こうして1980年代には、とくに若い世代で「在日差別」は、本質的に内面的に解消しており、あったとしても局所的な問題にとどまっていたと考えられるのである。
(朝鮮学校とのいざこざは1980年代にもまだ残っていたが、それは『金八先生』『スクールウォーズ』の時代であったことを想起してもらう必要がある。 要するにそれは差別問題というよりも、よくある学校同士の喧嘩であり、その原因を片方に一方的に帰せられるようなものではないのである)
以上簡単に「在日差別」は継承されていない=少なくとも1980年代前後の段階でほぼ解消していたということを示してみた。
今日の嫌韓現象について、「ずっと隠れていた差別意識が現れてきた」というような分析があるが、それは事実と異なる。 ある世代から下の嫌韓現象は、戦前戦中世代とは別の文脈で新たに(およそ2000年前後から)うまれたものである。その仔細については別稿に譲るが、その結論だけ強調して本稿を終えたい。
*1) もっとも私のような世代でも、在日側の問題がまったく目に触れなかったわけではない。なぜなら朝鮮人が戦後暴れていたという事実は『はだしのゲン』にもその片鱗が描かれていたし、金嬉老事件などもメディアで取り上げらていたからである。だがそうした問題に対しては、「植民地支配」「謂れなき差別」で苦しめた日本側に責任があるという「意味づけ」がなされており、在日の「無垢化」を損なうどころか、むしろ在日をそのような境遇に追い込んでいる日本人側の「罪」が強調されるというような論調が支配的だった。 この頃の筆者はそうした進歩的な論調にすっかり納得されられてしまっていたため、「無垢化した在日」の印象には影響しなかった。
*2) ちなみに今日では在日の全体像もよく知られているが、私は在日の多くが通名で生活し、日本の学校にも通っていることすら知らなかった。有名スポーツ選手に在日がいるとか、ロッテなどの大企業が在日創業であることも知らなかった。そんなことはまったく想像もしていなかった。(→1980年代に私が抱いていた在日のイメージ)
〔参考文献〕
『在日韓国人の終焉』 鄭大均 2001年
『在日・強制連行の神話』 鄭大均 2004年
『娘に語る祖国』 つかこうへい 1990年