政治兵器としての『平等』

パトリック・ブキャナン著『超大国の自殺』から引用(279-282頁)

平等が金科玉条とされた革命――フランス、ロシア、中国、キューバの革命――で、旧体制の放擲は、しばしば極悪非道に行われた。政敵、富裕層、聖職者、詩人たちは、ギロチン、ルビヤンカ刑務所、絞首台、銃殺隊、強制収容所に送りこまれた。旧支配者たちが監獄、追放、墓のなかに消え去ると、もっと醜悪で野蛮な革命のエリートたちが、宮殿、邸宅、ダーチャ(別荘)に入り込んだ。

ジョージ・オーウェルの『動物農場』がそのあたりを正確に描いている。「すべての動物は平等である」、革命はこのスローガンではじまった。しかしいったん権力が確立されるや、豚たちが農家を占領した。スローガンは読み替えられた。「みな平等だが、ある動物たちはほかのものより、もっと平等なのだ」。平等を標榜する革命は例外なく、少数の独裁権を確立して終わるのである。

(中略)

平等の原理はさして重要なものではない。多分、ポル・ポトとベン・ウォッテンバーグ(アメリカの政治コメンテーター、1933-)以外にはだれも実際に信じていないし、また声高に叫ぶものほどまじめに取り組んでいないから……。平等の原理の真の存在価値は、政治的な武器としてつかえることにある。

著作家、エッセイストのサム・フランシスも同じことを言う。150年前、トクヴィルは、平等主義を見透かし―その背後に権力への意志があることに気づいた。

民主主義社会で最高権力の集中に唯一の条件は、平等を愛する、また人をして自分が平等を愛していると信じ込ませることにある。かくして、専制主義の理屈は、むかしは難しいものだったが、きわめて単純なものとなり……たったひとつの原理に集約される。

ナチ占領時代を生きたベルトラン・ド・ジュヴネル(フランスの著作家、1903-87)はトクヴィルに呼応する。「平等は、ユートピアを追求する国家権力の拡大主義者にとって力強い味方である。強力な武器が一つあれば、政府は万能薬の伝道者としてなんでも約束できる」。

そのかなり前、イタリアの哲学者、ヴィルフレド・パレート(1848-1923)は、平等とは、「自分たちに不都合な不平等から逃れようとする個人の直接的利害に関するものである。そして自分たちに有利な別の不平等をつくりあげようとし、そのことに力点が置かれる」と書いた。

クイ・ボーノ?―だれが得する? これは永遠の問いである。新たな階層が平等の福音を説きはじめるとき、権力の座にあるのは誰なのか?

〔参考文献〕
『超大国の自殺』 パトリック・ブキャナン 2012年 ◆楽天  ◆Amazon