前頁で見たように朝鮮人は氏制度そのものについてはほとんど問題視していなかった。
すなわち夫婦が同じ名字を名乗ること、その際に姓をそのまま氏とすること(法定創氏)については問題視していなかった。
しかし設定創氏による非姓創氏(姓と別の氏を名乗ること)については朝鮮人の間でも態度がわかれた。
まず民族派は、設定創氏を歓迎しておらず、非姓氏をなのろうとする他者(とくに有力他家)に対して、その創氏手続きを妨害しようとしたことがわかっている。 (→抵抗運動の誤解)
では一般の朝鮮人は、設定創氏についてどう思っていたのだろうか。 つまり自分が非姓創氏することについてはどのくらい抵抗感があったのだろうか。
朝鮮人はどれくらい自発的に非姓創氏したのかについて、それを直接確認することはむずかしいが、およその推測をするために、(1)朝鮮人側の抵抗の様子と、(2)総督府側からみた強要の必要性、という両面から検討してみる。
(1)まず朝鮮人側の抵抗がどれくらいあったか。
水野直樹『創氏改名』(2008)には、氏制度を説明するような立場の朝鮮人が、率先垂範するために気が進まない非姓氏をしてしまったという話が収録されている。 また、明確にそれとわかるような資料は収録されていないが、何らかの理由で公的機関の人間が強めに非姓創氏を推奨(強要)したケースがあったことも考えられるだろう。人間同士の関係においてはさまざまなことがありうるからである。*1
このように一般朝鮮人側にも、設定創氏について、一定の抵抗感があったことは否めない。
とはいえ意に沿わぬ創氏をした場合は訴えによって取り消すこともできたので(*2)、実際の運用はかなり柔軟だったと考えられる。
(2)では一方、非姓創氏を「強要」する総督府の側は、どれくらい熱心に「強要」していたのだろうか。
熱心度合いの尺度として、ここでは総督府が出した予想創氏率に注目してみる。
なぜそこに注目するかというと、水野によると、予想創氏率は創氏手続のための事務要員確保の見積もりのために出した数字だったからである。
そしてそれはわずか二割弱であったことがわかっている。*3
つまり総督府は、朝鮮人世帯数の二割程度を処理できるくらいの事務員を確保すればよいと見積もっていたのである。 そしてそのこと自体を殊更に問題視していたという形跡は、水野『創氏改名』からは見てとれない。*4
このことは何を意味しているのだろうか。
もし本当に強要するつもりであれば、見積もりを多めに設定して、人員を多く確保するはずではないだろうか? あるいは見積もるまでもなく、全世帯分を処理できるだけの人員を用意するはずではないだろうか。
見積もりを実施したこと、二割であることをさほど問題視していなかったという事実からは、総督府は、多様な氏が設定されることを望んではいたものの、成果はあまり期待しておらず、多くは姓名がそのまま氏名になる(それもやむをえない)と考えていたということが推認できるのある。*5
また「法定創氏」という制度が用意されていたという事実も、設定創氏の非強要性を裏書きしているといえるだろう。 本気で「強要」するつもりなら法定創氏など必要ないからである。
加えて、もし「創氏改名」が朝鮮人の民族性を剥奪して強制的に日本人化するための政策だったとすれば(従来の説はこれだった)、日本名を「強要」する意味も理解できるが、しかし実際の「創氏改名」は苗字を設定するだけであって、下は民族名のままであり、姓は戸籍に残り、族譜も存続した。 このような状態で、創氏だけを苛烈に「強要」する意味がない。
ここではこれ以上の説明は割愛するが、総督府には設定創氏(非姓創氏)することを強要するような特別に強い動機は存在しなかったというのが筆者なりの感触である。(この根拠について詳しく知りたい人は→*6)
以上、(1)朝鮮人側の「抵抗」、および(2)総督府側の「熱心さ・必要性」は、どちらもそれほど強いものではなかった――このことからして設定創氏は、率先垂範等、一定の社会的プレッシャーがあったにしても、基本的に自由にできたと考えられる。
そしてこのように比較的穏当な創氏制度のなかで、朝鮮人があえて設定した非姓氏は、一部の例外を除いて、自発的につけたものと考えるのが自然だろう。
ここまで創氏改名について、総督府は朝鮮風氏名を推奨していたこと、制度施行前後の朝鮮人の反応、抵抗運動についての誤解等々を検討してきた。これらを総合して考えると、
創氏制度にまつわる「激しい抵抗」の正体は、ごく一部の過激派による、非姓創氏しようとする他家を批判妨害するための行動にすぎず、朝鮮人のほとんどは創氏制度をさほど気にしておらず、自由に設定していた。
……という当時の様子が、ぼんやりうかんでくる。
姓名は戸籍に残り、しかも前に見たように当局は朝鮮風の氏を推奨していたわけであるから、その程度の制度に対して、朝鮮人がわざわざ民族的抵抗をするような動機が生じるはずがない。*7
にもかかわらず性質の異なる二種類の「抵抗」が混同され、あたかも自分の氏が思うようにならなくて自殺したかのような嘘話がつくられ、そしてそれが戦後教育で流布された ―― これが「創氏改名」問題の真相だろう。(→梶山季之『族譜』の間違い(嘘)について)
創氏改名を考えるときに錯覚しやすいのは、つい旧説(日本名強制説、姓名廃止説)のイメージで考えてしまうことである。
つまり抵抗したにちがいないという旧説のイメージで見がちなことである。
しかし旧説が崩れたのに「抵抗したにちがいない」という先入観をもったまま創氏改名の問題を見てはならない。「抵抗したにちがいない」という先入観を除いて考えれば、創氏改名(創氏制度)というものがなんでもない制度であり、朝鮮人からみても抵抗する必要がなかった制度であったことが見えてくるはずである。
ただ設定創氏が(その後もう少し上昇させようとしていろいろ手を打ったにせよ、当初の見積もりをはるかに上回って)最終的に八割にものぼった点についてはさすがに不思議が残る。この八割の理由については水野『創氏改名』からはよくわからない。*8
いずれにしても「創氏八割」も無理やり推し進めたに違いないという旧説の印象はいったん払拭して考える必要がある。
総督府は設定創氏を無理やりに推し進める必要性もつもりもなかった。
そのことは、予想創氏率が二割弱であったこと、中枢院に諮るなどして朝鮮人の慣習との親和性を慎重に検討していたことなどからも窺い知れるのである。(→詳しくは関連拙稿の長文版)
「創氏改名」は煩雑な名前制度を導入してしまったという意味では悪政だったかもしれない。
しかしその煩雑さはあくまでも朝鮮の名前文化に配慮したことによるものであった。(私見)
設定創氏などが結果として(自殺など)さまざまな問題を引き起こしたこともまた事実であるが、それはあくまで行政問題、社会問題の範疇の問題であって国家犯罪などではなかった。(→「植民地支配」をめぐる2つの世界観)
つまり「創氏改名」とは、戦後の日本人が歴史教科書等で国民的反省を強いられる性質のものではまったくなかった。
にもかかわらず、あたかも国家犯罪であったかのように日本を糾弾し、政治利用してきたのが戦後の民族派の在日であり日本の進歩的知識人だったのである。(→「朝鮮半島をめぐる歴史問題」とはなにか)
(終)
*1) 「立場上余儀なくされた人」と、その下の「一般社会での強要」「役所での強要」などの項目を参照
*2) 役所にて
*3) 実施前の予想創氏率
*4) 届出率を気にしていたという記述自体はある。しかし公布した政策の行く末に総督府が関心を払うことは別段不思議なことではないから、届出率に関心があること自体に特別な意味があるわけではない。(→役所での強要)
*5) 総督府が(氏が自動的に決まってしまう)法定創氏よりも届出創氏を推奨することはむしろ当然であり、そのために大きな宣伝をすることもなんら不思議ではない(現代でも国民年金やマイナンバー周知のための宣伝をしている。種類としてはそれと同じ)。その宣伝がのちのち「届出八割」につながったとしても、それは別に非難されるようなことではないだろう。(→*8)
*6) 水野は創氏強要の必要性をさまざま挙げている。たとえば創氏によって宗族を解体する、天皇への忠誠を誓わせる等々。しかし筆者はその主張に納得ができなかったため「必要性はなかった」とした。そのくわしい説明は「真のねらい」などを。
*7) 水野『創氏改名』にも、民族的抵抗はなかったと書かれている。「創氏改名に対する批判と抵抗は朝鮮社会に広く存在していたが、多くは個人のレベルにとどまり、社会的或いは民族的な抵抗の形をとることはなかった」(232頁) → 検挙された朝鮮人の気持ち
*8) 水野は創氏が八割となった原因をいくつか挙げているのだが、筆者はそれに納得できなかったため「よくわからない」とした。なお筆者の推測は水野直樹『創氏改名』の考察(後編)の中で書いた。