水野直樹『創氏改名』の資料編(前編)

考察本文の参照用資料として、水野直樹著『創氏改名』(2008.3)から著者の考えを要約しつつ、論点を整理した。

以下、引用部分は斜体表記にしている。斜体以外の部分は当方で要約したものである。

ただし◇基本知識 ◇歴代総督 ◇創氏改名の導入意図 の3項目については、便宜のために当方で勝手に加えた補足説明である。(本書にはないものである)

この資料編は相当割愛しているので、不満な人は原本を当たって欲しい。非常に参考になるので必携必読。 楽天 ◆Amazon

◇基本知識

※夫婦同姓・夫婦同氏

一般に夫婦の上の名前(苗字)が同じであることを「夫婦同姓」と表現するが、本稿では混同を避けるため引用部分などを除き「夫婦同氏」という表現を用いることにする。

姓と名

朝鮮では、上の名前「姓」と下の名前「名」からなる「姓名」を以ってその人の名前とする。 姓は宗族集団(一族)をあらわす。

朝鮮は夫婦別姓の文化であり、例えば「李明博」と「朴槿恵」が結婚しても「姓」は変わらない。子は必ず父の姓を名乗り、その宗族集団を継承する。

本貫

本貫は「姓」の上位概念であり、その宗族集団の発祥の地をあらわす。同じ金姓でも、金海金、慶州金など、発祥の地が違うと別の一族とみなす。これら 本貫・姓・名 の3つが朝鮮の名前文化を構成する要素である。

族譜

本貫・姓・名を記した、一族の私的家系図のこと。

「氏」は当時の朝鮮にはなかったもので、ファミリーネームをあらわす。現代日本の「苗字」と同じである。(夫婦同氏)

「創氏改名」とは、本貫・姓・名とは別に新たに「氏」を創設し、その際、好きな氏を名乗れるようにした制度。(届出制)
(詳しくは本編を参照のこと)

※日本式・日本風について

本書においては、「式」と「風」について、次のような使いわけがされている。

・日本式(氏名) = 氏制度(夫婦同氏、ファミリーネーム制度)のこと
・日本風(氏名) = 「山田太郎」「鈴木花子」のように日本人ぽい氏・名のこと

(これは本書における約束事なので、引用部分などにはこの表記原則は当てはまらず、文脈で判断する必要がある)

また「日本風氏」には、(1)二文字からなる氏という形式を指す場合(53頁)と、(2)内地にしか存在しない氏(山田など)は日本風、本貫や姓、朝鮮の地名などを活かした内地には存在しない氏(本貫金海→金海。姓金→金本、金田など)は朝鮮風(146頁)のように様式を指す場合があり、どちらの意味であるかはこれも文脈による。

以上、本書19頁を参考に用語を整理した。 以下、これらの用語は断りなく用いられるので注意してほしい。

現在の一般的な認識

創氏改名は、日中戦争後、植民地朝鮮で強化された「内鮮一体」「皇国臣民化(皇民化)」政策の典型であり、朝鮮人に徴兵制を適用するための準備でもあった。さらには、日本が植民地支配の基本方針としていた朝鮮人「同化」(=日本人化)政策を象徴するものである。

以上が、現在の日本において(あるいは韓国においても)一般的になされる創氏改名の説明であるといってよい。(12頁)

本書で考察する範囲

本書で扱うのは、主に戸籍に登録される姓名(法律上の名前=本名)の問題である。日常生活で使われる呼び名は考察の対象から除外する。(24頁)

新聞資料について

総督府の機関紙の役割を果たした『京城日報』(日本語)『毎日新報』(朝鮮語)を中心に、朝鮮人の経営である『東亜日報』『朝鮮日報』、日本語による地方紙としては『釜山日報』を使う。(16頁)

細川首相の日韓首脳会談における発言

過去の我が国の植民地支配により、朝鮮半島の方々が学校における母国語教育の機会を奪われ、自分の姓名を日本式に改名させられるなど、誠に様ざまな形で耐え難い哀しみと苦しみを経験させられたことについて、そのような行為を深く反省し、心より陳謝を申し上げる。(1993年11月7日 於慶州)(2頁)

日韓の教科書の記述

1980年代以降、日本の教科書のほとんどに創氏改名に関する記述が登場し、現在に至っている。2007年度の教科書の記述は以下のとおり。

○「朝鮮や台湾においても植民地統治策が大きく変化し、日本語教育の徹底や神社参拝への強制がなされた。朝鮮では姓名を日本式に改める創氏改名が実施されるなど、日本への極端な同化を求める路線が、皇民化政策として実施されるようになった」(高校・山川『新日本史』)
○「朝鮮では、神社を作って参拝させたり、日本式姓名を名のる『創氏改名』を強制したりして、日本に同化させる皇民化政策を推し進めました」(大阪書籍『中学社会 歴史的分野』)(6頁)

日本の教科書の多くはこのように姓名と氏名を混同した記述をしている。「姓名を日本式に改める」という説明も正確さを欠く表現である。これでは「日本式」が名前が日本人風になったことを意味するのか、氏名制度(氏制度)を意味するのか不明確である。(7頁)

なお、近年の研究成果を取り入れたものも一部出てきている。
○「名前を変えるだけでなく、夫婦が別姓の朝鮮の人々にとっては、同姓を名のることにもなり、日本の家族制度が朝鮮に持ち込まれることになりました」(帝国書院)(7頁)

朝鮮での夫婦「別姓」の意味がわかりにくいという難点があるが、創氏改名を家族制度との関わりで理解させようとしている点は近年の研究成果を取り入れたものと評価できる。(7頁)

一方韓国の教科書では、「日帝(日本帝国主義)は我々の名前さえも日本式の姓と名に変えて使用するように強要した」(中学校『国史』)と簡単な説明にとどまり、姓と氏を混同している点は日本の教科書と同じである。高等学校の選択科目「韓国近現代史」(2003年から取り入れられた検定制度による教科書で6社から出ている)では、創氏した戸籍を図版として掲載したり、創氏強要の方法について詳しく説明したりするものもあらわれているが、総じて正確さに欠ける記述といわざるを得ない。(8頁)

◇歴代総督(1920年代以降)

齋藤實:1919年9月-1927年12月、1929年8月-1931年6月
山梨半造:1927年12月-1929年8月
宇垣一成:1927年4月-1927年10月(臨時代理)、1931年6月-1936年8月
南次郎:1936年8月-1942年5月
小磯国昭:1942年5月-1944年7月
阿部信行:1944年7月-1945年9月

実施時期

1940年2月11日~8月10日(11頁)

創氏とその方法

設定創氏:届け出ることで任意に付けられるファミリーネーム。例:金→金海、山田 (もちろん金→金でもよい)
法定創氏:(届け出がないと)姓が自動的にファミリーネームになる。例:金→金

なおこの区分は後に金英達氏が分類の必要上導入したものであり、当時はそういう区分は存在しなかった。(18頁)

改名

改名は、変更の理由を記載した上、手数料50銭を必要とした。(47頁) (創氏は無料)
裁判所の許可が必要(163頁) (創氏は届出制)

実施の結果

設定創氏は約80%(朝鮮人戸数に対する比率)、改名は約10%(朝鮮人人口に対する比率)。(11頁)
出足は悪かったが、最終的に設定創氏は8割に上った(104頁)。

改名は9.7%(1941年末)。(164頁)

戸籍の変化

戸籍 (クリックで拡大)

氏制度導入の審議過程

1912年に公布・施行された朝鮮民事令は、日本民法の物権・債権などに関する規定を朝鮮人にも適用するとしながら、親族・相続に関する規定は適用せず、これらについては「慣習による」としていた。(中略)異姓養子(姓の異なる者を養子とする)を認めないこと、姓は不変であること、同本同姓婚(本貫・姓を同じくする男女の婚姻)を認めないことなどが慣習とされ、「両班的」というべき家族・親族制度が維持されることになった。(30頁)

1924年9月総督は、民事令改正を検討するにあたり、中枢院(朝鮮貴族や朝鮮人官僚経験者を参議とする朝鮮総督府総督の諮問機関)に、婿養子(異姓養子)を認めるかどうか、家名(氏)を導入するのは適当かどうかを諮問した。その中では戸主の姓を家の称号とする案が検討されている。(31頁) 中枢院でどのような議論がなされたのかは不明だが、二項とも決定したとされる。(32頁)

「氏」導入の意図については、朝鮮でもイエが「社会組織の単位」となっているにもかかわらず、家に称号がなく、誰がその家に属しているかわからない状態を解消することが「国民の進歩上必要である」と松寺法務局長は説明した。(32頁)

民事令改正案は、1927年設置の朝鮮司法法規改正調査委員会(1932年3月に廃止)、1930年の中枢院会議でも協議され、新聞報道によれば、「朝鮮〔に〕は姓があり氏の称号なきものを如何にするか」「他姓の養子縁組を容認すべきか」「同本同姓の婚姻を認むべきか」などの問題が論議されたとされている。その後、改正案が司法法規調査委員会に提出されたとの新聞報道があったが、成案を見なかった。

法務局が推進した民事令中の親族に関する規定の改正が何故実現しなかったかを明らかにし得る資料は見出だせないが、法務局がめざしたのが朝鮮家族制度の抜本改編であったとすれば、婿養子、氏制度、同本同姓婚容認が大きな柱となるが、前二者については中枢院などの賛同を得ることができるとしても、同本同姓婚容認については儒教意識が強い中枢院参議などの朝鮮人有力者の理解を得ることが難しい、と法務局は判断したと推測できる。同本同姓婚については1939年の民事令改正にも含まれなかった。(32-33頁)

1937年4月、総督府は再び朝鮮司法法規改正調査委員会を設置。政務総監を委員長とし、法務局長・課員、裁判所判事、検察局検事らによって構成され、朝鮮人は中枢院参議など二名(李升雨、韓圭復)が嘱託委員となった。10月の同審議会案には「家の称号を設くるの要なきか」という項目にて「姓を以て家の称号(氏)」とするのが妥当と書かれている。なお、この時点までに、(中略)「内地人」風の氏名を付けさせるという案はまだあらわれていない点に注意(後略)。(36頁)

1939年2月に民事令改正の原案が司法法規改正調査委員会にかけられ、4月にこれを決議した後、法務局が法令案を作成し、6月下旬に内閣法制局の審査に回した。改正案を簡単に解説した記事が日本語雑誌『朝鮮公論』7月号に掲載されている。「内外地一本化の親族相続法確立」と題する記事は、改正案を「家名の称号たる『氏』を創設し、さらに『婿養子縁組』を認めんとするもの」であり、氏については「内地人流の氏を定めても支障な」いという内容だと伝えている。(40-41頁)

1939年11月、改正朝鮮民事令公布。新たに設けられた附則にて、改正民事令施行後六ヶ月以内に府尹・邑面長に届け出ることを義務とし、届出がない場合は戸主の姓を「氏」とするとした。(46頁) ※本附則の前半部分がいわゆる「設定創氏」

創氏改名に関する当時の報道

この民事令改正案作成の動きを最初に報じたのは、朝鮮語新聞『朝鮮日報』1939年5月26日付けの記事で、この記事では「内地人」風の氏名に改めることについては言及していない。ただ6月11日の朝鮮日報では、(改姓と創氏とを混同しているが)「内地姓は希望者のみに適用」という記事が出ている。(39頁)

同6月24日には『京城日報』が、「半島の親族相続/内地と同様に改正」と題する記事を掲載し、改正案の内容を「氏を一斉に登録せしめ」「家を単位とした家族制度」に改めるものと伝えた。(40頁)

日本語雑誌『朝鮮公論』7月号が、改正案を簡単に解説した記事を掲載している(前項参照)。また、この記事は、「旧慣の家族制度はこれによって真に日本古来の美風たる家を単位とした家族制度に改まるわけで、半島統治上画期的の革新対策として注目される」と評価している。家を単位とする家族制度を「日本古来の美風」として解説していることに注意しておきたい。創氏の実施にあたって総督府が強調することになるのが、「美風」としての日本の家族制度であったからである。(40-41頁)

なお、朝鮮人が日本風の名前を付けられるように要望したといわれることがあるが、1939年の新聞を見る限り、そのような事例は報道されていない。(42頁)

民事例改正が発表された時、総督府の御用新聞『京城日報』『毎日新報』がそれを歓迎する社説・記事を掲載したのに対して、朝鮮人が経営する『東亜日報』と『朝鮮日報』は、冷淡な姿勢を示した。『朝鮮日報』は、「朝鮮民事令改正発令」と題する社説を載せて、これを批判していた。『東亜日報』は社説にすら取り上げなかった。(61頁)

総督府の説明

氏制度の趣旨、内地人式氏の理由について総督府は以下のような説明をしている。

制度趣旨については、家の称号(氏)がなければ家族へ制度の美風を保つことができないこと、異姓養子を認めるためには宗族すべき家名を設ける必要があること。「内地人式の氏」を定めることができるようにした理由は、それを希望するものが多いこと、日中戦争勃発以来、朝鮮人が「実質形式共に完全なる皇国臣民たらんことを熱望」していること、内地で「外国帰化人、北海道在住の土人〔ママ〕」にすら「内地人式の氏」を認めているのに、内鮮一体が高唱されている朝鮮で認めないことは不自然であること、などによると述べている。(49-50頁)

法務局のパンフレット『氏制度の解説』などでは、これらに加えて、血縁集団の称号である姓が生活の近代化にそぐわなくなっていること、朝鮮人の姓は中国のそれを導入したものに過ぎず、今や中国文化の払拭をしなければならないこと、などが説かれている。(50頁)

総督府はさまざまな理由をあげて、朝鮮人に「内地人流の氏」を受け入れさせようと図ったのである。(50頁)

実施前の予想創氏率

見込みを建てなければ事務処理の人員など、予定が立てられない。総督府は開始前に創氏の届出率を二割弱と予想していた。(55頁)
この文書によるなら、総督府法務局は氏設定の届出率を二割弱と見込んでいた。創氏の結果を知る私たちにとって意外とも思えるくらい低い比率が予想されていたのである。(55頁)

○地域別・氏設定届出率予想(54頁)

 ・半島:16%
 ・内地:50%
 ・満州:30%
 ・中北支那:30%
 ・その他:30%
  合計:17.7%

総督府要人発言

朝鮮総督南次郎:
総督府は、民事令改正の発表以後、「創氏は強制ではない」という言葉を繰り返していた。公布に際して発表された南次郎の談話では、「本令の改正は申す迄もなく半島民衆に内地人式の『氏』の設定を強要する性質のものではなくして、内地人式の『氏』を定め得る途を拓いたのであるが、半島人が内地人式の『氏』を称(とな)うることは何も事新しい問題ではない」(77頁)
総督府局長会議で南次郎発言「創氏せよというのは強制するという主旨では絶対にない」(『京城日報』1940年3月6日)(77頁)

法務局長宮本元:
「好むと好まないのとに拘らず一律に内地人式氏を設けなければならぬ性質のものではない」(『京城日報』1939年12月28日)(77頁)
「氏制度の設定に依り氏の設定を義務附けられた次第でありますが、内地人式氏の設定に付ては法令上何等義務附られたるものに非ざるは固より、法令の運用上に於ても、聊かたりとも強制的又は勧奨的意図を有せざる所であります」
(『朝鮮』1940年3月号、1940年1月の東京帝国大学法理研究会における朝鮮民事令改正についての講演より)(77頁)

【引用者注】 ここでは両者「内地人」という表現を用いているが、冒頭で示した表記原則にあわせると、いずれも「日本人」の意味である。それを強制・勧奨する意図ではないと述べている。

官憲の動向

総督府警務局は協力しなかった。「わからなくなっちゃうんですよ、だれがだれだか。どうしても総督の大方針でやるというのなら、問題が起こらないように自由意志でやらせてください。警察は協力はひとつこの際御免こうむりたいと、もうはっきり言ったんですよ」(要旨/135頁)と警務局長三橋孝一郎は回想している。 (『東洋文化研究』2003年3月。1967年に開かれた研究会での回顧談)

つづけて三橋は、創氏に協力しなくてよいという南総督の言質を得て、「警察は一切協力してはいけない、これは本人による自由意志に基づくものだとはっきりさせ」る政務総監の依命通牒を出したと述べている。(136頁)
また『大阪毎日新聞朝鮮版』(1940年2月4日)は「〝氏〟の創設は強制ではなく任意」という見出しで、警察局保安課から各道に通牒を出すことになったと報じている。この通牒は、三橋がいうように「警察は一切協力してはいけない」と指示したものとはいえないが、警察当局が「創氏は強制ではない」という点を重視していたことがわかる(137頁)。

警察署は司法警察事務に関しては検事の指揮を受けることになっていたため、各道の警察署長会議で地方法院検事局の検事正が訓示をするのが慣例となっていた。例えば、忠清南道警察署長会議、忠清北道警察署長会議では大田地方法院検事正が「各位は氏制度の周知徹底に付て更に渾身の努力を傾注され所期の効果を挙げられんことを切望して已まないのであります」と訓示している(6月28日、7月2日)。(88頁)

検事の要請に応じて、一部の警察署では創氏の宣伝に積極的な示すことになった。
黄海道警察部は、道内各警察署・駐在所に創氏相談所を設けること、警察が主催する時空座談会で創氏制度の普及を図ることを決め(『毎日新報』4月14日)、全羅南道谷城郡兼面駐在所が開いた「創氏座談会」に参加した地区住民は全戸が創氏したとされる(『大阪毎日新聞朝鮮版』5月26日)。
しかしながら、警察が積極的に創氏徹底活動の先頭に立つという事例はそれほど見られない。多くの場合、法院・行政機関に協力するという形で関わる程度だった。(88-89頁)

黄海道海州警察署の朝鮮人警部だった尹宇景は、「警察では一切関与しなかった」と書き、自らも「署長や警察部長から創氏せよと指示を受けたことはなかった」と回想している。(137頁)

実施後の朝鮮人意識調査

雑誌『三千里』1940年3月号に朝鮮人有力者の創氏の意思についてのアンケートがある(61頁)。49名の回答者のうち、3割が創氏改名に消極的(62頁)としている。また興味深いものとしていくつかの発言が紹介されている。(自由記述形式)

○金甲淳(朝鮮新聞社長) 「当局に於いても強制するにあらず、又強制すべき性質のものにあらざるが如し。社会的国家的要求とあれば、何れ改むることもあろう。今は何も考えぬ」
○崔昌漢(江原道警察部保安課警部) 「之〔創氏改名〕が可否に就ては種々の議論があるべきも、内鮮一体の究極の目標は、形、質共に完全に内地化人することにあることと信じ、夙に改氏名の決意をなし〔下略〕」
○権相老(中央仏教専門学校教授)「私は氏を創定申告せず、自然的法律の効果を発生して昭和15年6月末日までは姓名が権相老として振る舞い、7月1日からは氏名が権相老になろうと思います」〔当初、氏設定の届出期間は1月1日から6月末日までの予定だった〕
○盧周鳳(光州警察署警部)「内地式の氏に改め、又は自ら創氏することも宜しいが、氏は家統を表示し、姓は血統を表示するものなり。仍って朝鮮人の家統は本貫であり門派別であるとせば、本貫を氏とし、本貫に依り難きものは門派別を氏とするを可とす。故に本人は本貫豊川を氏とし、名前は強いて改名する必要はなし」
○金亨鎮(鍾路警察署警部)「御照会の創氏改名は未だに考えて居りません。子供の教育上必要あれば、社会的地位を考慮の上、創氏改名をするかも知り〔ママ〕ません」
○趙鎮満(大邱地方法院判事)「『創氏、改名』も亦子孫後代の将来を考慮し体制に順応し、慎重に措置すべき事項にして、確定案の樹立したるもの無し」

創氏を検討すると答えた者の多くが、「子供の教育上」「子孫後代の将来を考慮し」と述べていることにも注意しておきたい。(63頁)

『三千里』に回答を寄せた中枢院参議五名のうち創氏改名をすると答えたのは三名で、二名は創氏しないと答えている。(67頁)
○南百祐(中枢院参議)「我が南氏宗中は内地にも南という氏がある故、別に創氏は要らぬと思います」「改名も考えません」
○崔準集(中枢院参議)「自分は従来の通り、崔準集で、変更せざる積りであります」
なお最終的には中枢院参議の65名のうち56名(86%)が創氏を届け出ている。(68頁)

1940年2月15日、衆議院予算委員会で質問に立った朴春琴議員は、「或る内地の馬鹿があって(笑声)、朝鮮人が日本人になるというので、あんな民法〔ママ〕令を改正したのは間違っている、つまり大和民族は正しくて、朝鮮人のような悪い奴を日本人にするのは怪しからぬと言って居る」と発言している。また朴は創氏を「善いことと思っている」と述べている。(142頁)

この「或る内地の馬鹿」とは、「朝鮮同胞に日本伝来の名字の濫許す可きか」のような表題の意見書にて、日本の名字の九割は「後胤神胤」として発生したもので、これら姓氏の「中心宗家」である皇室を戴くのが日本の国体である。よって内地に存在せざりしもの、例えば「金寺、金水、金月」などを用いさせよ、などと主張した古谷栄一のことを指しているとされる。(140-142頁)

実施後の氏名使用実態

1941年3月、京畿道警察部長が刑務局長に送った「創氏の利用状況に関する件」と題する文書の中で、官公署、学校では新氏名が使用されているが、会社、銀行などでは仕事中や日本人と話すとき以外は旧姓名を使う者が少なくないこと、「一般民衆に於いては殆ど旧氏名〔ママ〕を使用するのを常とし、郡部に於いて特に其の傾向甚だし」としている。(210頁) また、創氏改名によって郵便物に支障が出るので、標札には旧姓名も掲げておくようにとの呼びかけが郵便局からもされている。(212頁)

創氏改名が実施されて三年後、李泳根(上田龍男)は、創氏について、「強制を含んでいない。朝鮮人の自由にまかせているが、朝鮮人の殆どが所謂創氏をした」と述べた上で次のように書いている。
『その内容を厳査すると本当の日本風な氏を設立〔ママ〕したのは全体の約二割程度である。あとは実に奇妙なものをこしらえている。字数をとにかく四字にさえすればいいと思って旧姓名にいろいろな字を入れて、とにかく一時的なごまかしをやったものが多い。これは創氏はしたものの公の場合以外は使用して居らない。現在は、逆に昔の姓名を使っているものもある』(166頁)

1940年から1945年までの五年間で宗族集団の力が弱まり、朝鮮社会のあり方が変わったと考えることはできない。(中略)形の上では新しい氏をもつようになった人びとは、依然として旧来の姓を名乗る世界に生き続けたのである。(226頁)

設定した氏の由来

1941.8.12『京城日報』の記事によると、地元で調査した7770戸のうちの創氏をした7541戸(96.2%)を調べた結果、
姓によるもの(20)、本貫によるもの(10)、祖先の呼称によるもの(5)、姓そのまま(5)、縁故ある地名によるもの(3)、内地人の氏にならったもの(35)、崇拝する人物の呼称に関係したもの(2)、その他(20)。 (括弧内は%を表す)

この数字から推測すると、次のようになる。「崇拝する人物の呼称に関係したもの」はほとんどが「内地人」の氏と考えられるので、「内地人の氏にならったもの」とあわせた37%が「内地人風」ということになる。「その他」を除く残りの43%は姓・本貫・地名などによるものとしており、その多くが何らかの形で「朝鮮的」な氏となったと考えられる。(152頁)

氏設定の方法

1941.8.12『京城日報』の記事によると、地元で調査した7770戸のうちの創氏をした7541戸(96.2%)を調べた結果、
門中の決議(10)、近親間の協議(5)、有力者に決定してもらう(15)、自己独自の考案(35)、姓名判断(15)、その他(25)。 (括弧内は%を表す)

「門中の決議」「近親間の協議」が意外に少ないのは、京城府という都会であったために門中の結集力が弱く、「自己独自の考案」が多かったためかもしれない。朝鮮全体の傾向を示すものと考えるべきではなかろう。 (152頁)

内地人風氏名の発案

1937年7月に始まった日中戦争の中で、総督府は朝鮮人の「皇民化」を最大の政策課題に設定し、「皇国臣民の誓詞」の制定、朝鮮教育令の改正、陸軍志願兵制度の実施、日本語の普及などの政策を相次いで実施した。総督府内でこれらの政策の立案・実施の先頭に立ったのが、学務局長塩原時三郎である。(37頁)

学務局に勤務経験のある八木信雄は次のように語っている。この「某局長」が塩原であることは間違いない(38頁)。

このこと〔創氏制度〕を発案し、総督に進言した人が総督府部内でも同化主義政策の推進に特に熱心ということで定評のあった某局長であったらしく、その真意は、日本式氏名を名のる韓国人がひとりでも多くということにあった。(八木信雄)(38頁)

1937年7月に学務局長に就任した塩原は同化主義政策に特に熱心だったらしく、「日本人風の氏名」を付けさせるというアイディアが塩原から出たことを推測させる資料がある。学務局嘱託の奥山仙三の「内鮮一体のために日本姓を許すべき」(39頁)という改姓の主張がそれである。これが学務局外郭団体の機関紙に掲載されていることを考えると、学務局長塩原の考えを代弁したものと推測される。 単に氏を付けさせるというだけでなく、それを日本人風にするという意味での「内地化」を主張したのが塩原らだと見てよい。(38-39頁)

内地人風氏の奨励

宗族集団の弱体化には、イエの称号である氏を付けさせるだけでは不十分であった。何故なら、戸主の姓をそのまま氏とするという方法では、同じ宗族集団に属する多くの家が結局は同じ氏を名乗るにすぎないからである。宗族集団の結束を弱めるためには、出来る限り異なる氏を付けさせる必要がある。そのためには、「内鮮一体」を掲げて「内地人風の氏」を付けさせるのがよい ――― 1939年の段階で総督府はこのように考えたのではないだろうか。塩原が持ちだしたと思われる「内地人風の氏」というアイデアを法務局が受け入れたのも、そのような理由からだったと推測できる。(52-53頁)

また総督府は二文字からなる氏が「日本人風」であると奨励したため、実質的に新たな氏として認められるものは、「二文字からなる日本人風の苗字」(53頁)となった。 (金朴のように夫婦の姓を合わせたもの、中村金など三文字以上のものは不可とされた)

差異化の奨励

民族派(古谷など)から日本人と朝鮮人との区別が苗字ではできなくなる(144頁)との批判も出たため、総督府は「差異」を残す方向に軌道修正した(145頁)。

あまりにそれを奨励すると「内鮮一体」の趣旨に反すると非難を受けかねないので、それほど積極的に宣伝していないが、法務局が作成した『朝鮮に氏制度を施行したる理由』では「新聞、ラジオ、パンフレット、講演、精神総動員〔連盟〕を通じ内地人式の氏即ち二字制の氏の設け得るものにして、日本既存の氏を踏用せしむる趣旨にあらざること〔中略〕の周知徹底を図」っていると書いている。
民事課長岩島肇は、届出が始まった後に行った講演で、「氏の設け方ですが、模倣するのは私は考え物ではないかと思います。内地人に木村というのがあるから木村を選ぶのでは意味がないかと思います」(『氏制度について』)と述べている。
緑旗連盟が設けた氏相談所の顧問を務めていた松本重彦(京城帝国大学教授)も、新たにつくる氏は「これまでの姓と全く離れるのが正しい」のであり、家にかかわりのある地名をとるのがよいとしながら、日本人の苗字をそのまま使うのはよくない、「故なく皇国人の氏を真似て佐藤、五味、井上、堀内などとするのは最も笑うべきことであります」と書いている(『氏創設の真精神と其の手段』)
このように法務局などは、朝鮮人が「日本既存の氏」を「踏用」「模倣」しないように注意を払っていたのである。(145-146頁)

さらに総督府は、氏設定に際して朝鮮的な氏をつけるように誘導した。

総督府は、由緒ある地名から氏を付ける方法や、姓あるいは本貫から氏をつくるとうい方法を奨励したが、次第に姓・本貫に由来する氏に重点を置くようになった。つまり、金という姓に一字を加えて金本・金山・金田にしたり、本貫を金海とする金一族なら金海を氏とするというやり方である。(146頁)

併合直後に朝鮮人官吏などが日本人風の姓名に改名する事例が少数みられた。しかし当時の日本人は朝鮮人に優越する地位に立っており、官吏などの処遇の面でも違いがあった。警察による各種取り締まりにも、日本人には保安規則(統監府令)、朝鮮人には保安法(大韓帝国法律)が適用され、罰則も異なっていた。 しかし日本人と朝鮮人は肌の色、顔つきで区別ができず、ことばや服装が同じようになった場合、区別する手がかりがなくなってしまう。戸籍を見ればわかるが、日常生活で区別するには名前に差異を設けるほうが手っとり早いやり方である、と総督府は考えたのである。1911年の総督府令にて、朝鮮人の姓名改称は届出制から許可制へと変更されたが、条文にはないものの、その運用上、内地人に紛らわしい姓名に改称することは禁止された。(29頁)

このように、併合直後、「名前の差異化」政策がとられ、それが創氏改名にいたるまで変わることがなかったのである。(29頁)

賛成反対、三つの立場

総督府内部には創氏改名政策に関して、次のような三つの立場があったと考えてよい。第一の立場は、朝鮮人に「日本人風の氏名」を付けさせるべきだとするもので、学務局長塩原らの考えだったと推測できる。第二は、朝鮮の家族・親族制度の改編のために氏制度を創設して「イエ」の観念を強めるべきだとするもので、法務局が1920年代以来実現しようとしていた政策に表れている。第三は、「日本人風の氏名」を付けさせることには反対する立場で、主に取締まりを重視する警務局が主張していたものである。(43頁)

創氏改名施行後の実際の実施場面においてもこの三つの立場は混在していたと考えられる。この同化かそれとも差異化かという総督府内部の意見の違いは、「内鮮一体」に賛成する朝鮮人の間においても、完全同化の主張と、朝鮮人の民族的固有性を残した上で「日本帝国」の一部となるべきというイデオロギー上の対立が見られたことに対応している。いずれにしても、総督府は一枚岩で創氏改名を推進したわけではなく、内部に矛盾と対立を抱えていたのである。そのような対立をはらみながら、最終的に総督南次郎の決断によって、創氏改名は実施に移されていくことになる。(43-44頁)

女性にとっての創氏改名

創氏政策で最も影響をうけるのは既婚女性の「上の名前」である。それまで既婚女性は父親の姓を名乗っていたが、舅または夫が決めた「氏」を名乗らなければならなくなるからである。しかし創氏改名を考える際に、それが女性にとってどのような意味を持っていたかについて論じられることはほとんどない。(187頁)

当時の女性たちがどう考えていたかという資料は少なく、あくまで少数のインテリ女性の声であるが、それは以下の様なものである。(188-192頁)

○崔以権(朝鮮YMCA活動家、夫は延禧専門学校教授・白楽濬) 「ずいぶん前から人びとは私の名前を呼びませんし、私の子どもたちが私の姓に従うわけでもありませんから、私はとっくに私の姓を失ったのではないでしょうか?いまさら新しい感想など浮かびません」(朝鮮日報社『朝光』1940年1月号)
○毛允淑(詩人、夫は普成専門学校教授・安浩相) 「毛允淑を安允淑と呼び変えたなら、その語感からくるなじみの薄い気分あるいは印象は、お粥でもご飯でもないような感じを起こさせます。日常の習慣になればわかりませんが、はじめはそんなものか、自分を忘れてしまったような寂しい事件のように思われます」(時期不明)
○張文卿(医師) 「今までの私の〝姓〟……。私の個性の小さな一つの表象がなくなり、夫の姓に従うのは、何か持っていたものを捨てるようで、寂しくはあります」(時期不明)
○黄信徳(東亜日報記者、夫は東亜日報記者・任鳳淳) 「夫の姓に従うのは、従えというなら従います。女性というのは、父の姓に従おうが、夫の姓に従おうが、別に根本的な問題になることはないですから」「四文字の姓名が必要なら、任黄信徳にしようと思います」」(雑誌『三千里』1940年3月号)
○金活蘭(梨花女子専門学校校長・独身・女性戸主) 「子どもが父の姓だけに従うよりも、父と母の姓を同じにするのだから、家庭の団欒味から見てよいことです」(『毎日新報』1939年11月10日) 金活蘭の属する金海金氏一族は「金海」を氏とすることしたが、彼女はこれに同調せず、自らの意志で氏を設定することにした(191頁)(→『天城』と創氏)

【参考】 朝鮮における女性の名前

日本統治以前の朝鮮では、両班(貴族階級)の女性は本貫・姓が、奴婢は名前だけが戸籍に登録された。既婚女性については依然として父姓(および本貫)での記載という状態が続いた。日常生活でも名前を呼ばれなくなるのが一般的であった。(25頁)
民籍編製にあたって日本人官僚は、女性や奴婢身分出身者を含め一人ひとりに本貫・姓・名前をつけようとしたが、しかしそれまで戸籍に名前が登録されていなかった既婚女性の名前を登録することは、朝鮮民衆の強い反発を呼び起こすと考え、しばらく女性の名前の登録を控えることとした。(26頁)

新生児の名前

併合直後、極めて少ない事例であるが、朝鮮人官吏や警察官が日本風の姓名に改めること(改姓改名)があった。日本語新聞などはこれを朝鮮人の同化を表すものとして歓迎していた。しかし日本人と区別がつかなくなることを恐れた総督府は、1911年に改姓名については届出制から許可制に改めた。条文には明示されていないが、同令の運用で「内地人に紛らわしい姓名」に改めることは禁止され、新生児の命名についてもこれが適用された(28-30頁)。 1937年11月に新生児に対してのみ制限が緩和され(37頁)、1940年の「創氏改名」以降は新生児に日本風の名前を付ける親もあった。(166頁)

『大阪毎日新聞』(朝鮮版)4月21日付記事によると、全羅南道羅州郡で1937年から1939年2月までの出生届を調べたところ、英男、正男、貞子、花子、さらにはトヨ子というカタカナ名も見られたとして、「半島人の内地化」がうかがわれると書いている。(41頁)

族譜と創氏改名

私的家系図である「族譜」は相続集団によって編纂される私的な文書であって、法的な意味を持つものではなく、戸籍上の名前が変わってもそれが直ちに族譜に反映されるわけではない。つまり氏制度とは直接は無関係であり、これまでの姓・名・本貫は族譜に残ったままである。(24,183頁)

朝鮮以外の実施状況

朝鮮内、内地における創氏届出率はそれぞれ76.4%、14.3%。
この差は、戸主が朝鮮内に在住のため連絡や相談がしにくいなど、氏の届け出に支障が出たことなどからとされている。
満州国、中国においてはそれぞれ18.8%、14.5%。(195頁)

強要の実態・抵抗運動

資料編(後編)で扱う

◇創氏改名の導入意図

ここで創氏改名の導入意図について著者の考えを整理すると次のようになる。

(1)名前政策的側面としては、「氏」「名」を設定し、また改名する制度を設けた。ただその際には、日本人と紛らわしくならないように、氏は朝鮮風を推奨して改名も許可制にするなど、むしろ「区別・差別にもとづく支配秩序を維持・強化する」ように図った(30頁)。

(2)家族政策的側面としては、朝鮮的な家族制度、とくに父系血統に基づく家族集団の力を弱め、日本的なイエ制度を導入して天皇への忠誠心を植え付けること(50頁)を目的とした。それは、日本の明治民法の氏導入経緯や出版物、南総督の言葉などを根拠とする。

「由来朝鮮には血族団体の名称として、李とか朴とかいう姓はあるが、日本古来の家の称号たる氏というものがない。そうして一家内にあって夫と妻とが別々の姓を称しているなど、我が国古来の風習と一致しない処がある。そこで半島人をしてこの血族中心主義から脱却して、国家中心の観念を培養し、天皇を中心とする国体の本義に徹せしむる趣旨の下に、今年皇紀二千六百年の紀元節を機として、氏を付けることを許されるようになった」(南次郎「朝鮮も一生懸命だ」『キング』1940年10月号)
「〔朝鮮の〕『祖先中心主義』は我が皇室中心主義とは相容れぬのであるから、皇室中心主義の思想に範(のり)する氏制度を創設し、真の意味における内鮮一体の実を挙げる」(1940年6月12日、東京で開かれた中央朝鮮協会主催の午餐会での発言)(51-52頁)

当時出版された解説書は、「従来は一身が宗族に結びつけられたが、今後は『各家庭が直接天皇に結びつけられて居る』この理念が第一義となるのである」とその意義を説明している。(50頁)

そしてこの第二点こそが創氏制度の「真のねらい」(50頁)なのだとしている。

※第二点について補足説明:「本貫(地名)+姓」を一族とみなす朝鮮社会の習慣に対し、各家庭ごとに別々の『氏』を名乗らせることによって一族集団の団結心を削ぎ、天皇に忠誠を誓わせることをねらったものだということ。

(ここまでは(1)の名前政策的側面を中心に整理した。 ここから下は(2)の家族政策的側面について整理する)

日本の氏制度

日本で家の称号として氏が法制化されたのは、1898(明治31)年の明治民法親続編制定によってである。それ以前は夫婦別姓が一般的で、法律上も夫婦道氏の原則は定められていなかった。明治民法は、家の長として戸主に大きな権限を与えたうえで、国家が家を通じて個人を把握するという仕組みを作り上げた。そこでは、家が直接天皇と結びついているという観念が形成され、天皇を頂点とする国家体制を支える役割を果たした。 (52頁)

この日本の「イエ」制度を植民地に持ち込もうとしたのが朝鮮民事令の改正(創氏改名)である。(52頁)

一族には氏の差異化の奨励

総督府は、日本人と区別がつくように、日本人の苗字をそのまま使うのではなく、特に姓や本貫に基づく氏を奨励していたが、同時に、本貫に基づいて門中同一氏とするような設定方法も不可とする立場をとっていた。(146頁)

しかし、本貫に基づいて氏を定めるというやり方は、氏制度の導入のねらいと矛盾するものであった。(中略)総督府は門中などと呼ばれる宗族集団の弱体化を目的として氏制度を導入したため、門中で氏を設定することは不可とする立場をとっていた。法務局の解説パンフレットは「氏は家を表す称号ですから他の家と区別出来る氏を定むべきで、一門中百家又は或る会社の社員全部が同一の氏を設定するなどと言うのは、氏の性質を知らない人のすることで賛成出来ません」と書いている。(『氏制度の解説』)(146頁)

地方の司法機関も、ことあるごとに門中会議での決定を好ましくないとする談話を発表していた。例えば、海州地方法院長は、 「中には宗中会議を行い、白河趙氏の如き何百人という宗中の人たちが揃いも揃って皆同じく『白河』と創氏するようでしたが、これなどせっかく一家を国家単位とする氏制の特徴を殺すもので、この際出来ることなら自分独特な創氏を決めたいものと思います」(『京城日報』1940.4.7)(147頁)

一族氏の黙認

しかし、他方で本貫や地名にもとづいで氏を設定するように奨励していたため、本貫を同じくする門中が協議して氏を設定することを黙認せざるを得なかった。さらに、氏設定の届出が不調であったため、成績をあげるためには門中での氏設定を認めるほかなかった。(147頁)
朝鮮でも門中会議での氏設定を抑制しようとしたが、結局それを黙認した(後略)(203頁)

創氏改名と徴兵制

「創氏改名は徴兵制のためである」とする説があるが、徴兵制度と創氏改名殿関係を明確に示す資料は見出だせない。むしろ(中略)創氏改名においても差異化のベクトルが作用していたことを考えに入れるなら、日本の軍隊に入れる朝鮮人に完全な「日本名」を持たせようとしたと結論づけるのは、無理のある議論といわねばならない。(215頁)

「日本名によって」ではなく、創氏によって家族制度を改編して天皇への忠誠を植え付けることが、徴兵を始めとする戦時動員の前提条件と考えられていたと言うべきである。(216頁)

台湾における「創氏改名」

「創氏改名」ではなく「改姓名」であった。これは台湾の女性は結婚すると、自分の姓の下に夫の姓を付け足す習慣があり(林姓の女性が陳姓の男性と結婚→林陳)、日本の「民法上の氏と同義である」と解釈されたからである。そのため、台湾では、「皇国臣民化」を推し進めるために創氏をする必要はなく、単に「改姓」すれば足りると台湾総督府は考えたと思われる(202頁)。 ゆえに改姓も改名も許可制であった。なお期限は設けられなかった。

この意図については、もちろん、朝鮮の創氏と台湾の改姓は、宗族集団の弱体化を図り、家長が統率するイエを天皇の下に再編成することによって、植民地に天皇制国家の社会的基盤を築こうとしていた点では違いがない。(202頁)

台湾の改姓が朝鮮の創氏と異なるもう一つの点は、改姓したイエを宗族集団から切り離す意図が明確だったことである。台湾総督府は、新たな姓に歴代天皇の諱などを使用してはならないとしたほか、「現在の姓に縁由ある支那の地名」を使ってはならないとした。
すでに述べたように、朝鮮でも門中会議での氏設定を抑制しようとしたが、結局それを黙認しただけでなく、総督府は本貫などの地名に由来する氏を推奨していた。それに比べると、台湾では宗族集団に結びつく要素をできる限り排除しようとしたと考えられる。(203頁)

改姓名が許可制であったため、1943年までに改姓名したのは全戸数の2%にとどまった。改姓名への圧力がまったくなかったわけではないが、その台湾の改姓名に比べると朝鮮の創氏がきわめて大きな強制力をともなって推進されたことを指摘しなければならない。(203頁)

(最後に下の名前について)

改名は促進せず

総督府は、氏の設定届出をさせるために強圧的な手段をとったが、それに比べると改名については放任する態度をとったばかりか、むしろ消極的な姿勢を示した。総督府は、創氏を実施しながらも、改名についてはそれを促進する措置をほとんど取らなかったと考えねばならない。(153頁)

朝鮮風な名前を維持することを推奨するような発言もある。 たとえば京城日報は1940年4月5日付けで、総督府が改名手数料の引き下げに消極的だった理由として「内地人式の氏を定めた場合に必ずしも名を変更するの必要はなく、寧ろ個人の個性を現す意味合いからはなるべく従来の名を使用したほうが適当」と考えていたからだという岩島民事課長の談話を載せている。しかしそれは建前であり、「個人の個性」を尊重するといいながら、実は朝鮮人であることを表す名のままにしておくのがよいと考えていたのであろう。(154頁)

このほか5月中旬には、氏の設定を優先し、名前の変更は後回しにしてよいとする法務局長の談話が新聞に掲載されている。6月釜山地方法院長の指示文書にも、改名を後回しにするよう書かれており、これも「改名はしない方がよいとする法務局の見解に沿うもの」(155頁)であった。

また緑旗連盟の氏相談顧問松本重彦は、朝鮮的な名を残すことを奨励する文章を書いている。

次は名は如何にすべき。それはもとの名の字のままにしてそれを国語の訓で読むのが最も正しいのであります。もとの名の字を変えて新しい名をつくるのは最も正しいとはいわれません。上に皇国風の氏があり、下にシナの名があるのではなんだか釣り合わないように感ぜられるかも知れませんが、その字を国語の訓で読めば、少しも釣合わないことはありません。(松本重彦「氏の話」『緑旗』1940年2月号)(154頁)

『緑旗』編集人の森田芳夫も、高額の料金を取る姓名判断を「内鮮一体の時局を食い物」にしていると非難して、そんな姓名判断を信じるより「両親が自分のことを考え、自分の将来が良くなるようにと考えて、つけてくれた名の方がどれだけ尊いことであろう」と書いて、改名しないように勧めている。(『緑旗』1940年4月号)

他の解説書も「出来るだけ旧名は存置して国語で読むようにしたい」と書いており、改名は控えたほうがよいというのは緑旗連盟だけの見解ではなかった。(154頁)

なお、改名のほとんどは日本風名への改名であったが、注目すべきは、「朝鮮名」(朝鮮人風の名)としか考えられない名前に改名している事例がかなり見られることである。(中略) このような改名がそれぞれの人にとってどのような意味を持つものであったのかは定かではない。 当局の創氏改名政策を利用して、それまで許可を得るのが難しかった改名を自らの希望で実現してしまったケースが多いと思われるが、いまのところ「朝鮮名」への改名の事情を明らかにすることはできない(163-164頁)。