「バカチョン」が朝鮮人差別と無関係である決定的証拠

「バカチョン」が昔から日本に根づいている朝鮮人に対する差別用語であるとの説が未だにしばしば流布される。 しかしそれが虚である決定的?な証拠を示そう。
それはドラえもんサウンドバカチョンという名の秘密道具が登場していたという事実である。 (後にサウンドカメラに改称)

藤子不二雄が民族差別用語をつけた秘密道具を出すことなどあるはずがないのであって、*1
つまりこの事実こそバカチョンが朝鮮人の蔑称ではなかったということの決定的な証拠だといってよいのである。

時代背景を説明すると、1977年に世界初のオートフォーカス機能を備えたハイテクカメラ コニカC35AF が発売され、このときバカチョンという俗称も生まれた。

バカチョンは、筆者の母親も日頃しばしば使っていた「バカでもちょんでも」に由来する。「ちょん」とは、辞書によれば間抜けとか半人前という意味らしいが、母親もまさにそのような意味で使っていたと思う。つまりパカチョンカメラという俗称は、オートフォーカス機能により私のような下手でもピンボケせずに上手にとれるという少し自嘲的な調子で使われていたものなのである。そこから、子供でもとれる→子供が使うカメラとして漫画にも登場するという按配であった。

そうしたカメラの俗称に(当時、今よりもずっと存在感の薄い)朝鮮人のことなどがわざわざ入り込むはずがなく、かくいう筆者(1970年生)も、そういう言いがかりが付いた90年代?まで朝鮮人への差別用語に当たるなどとはまったく考えもしなかった。

かつて、地域によっては朝鮮人への蔑称(攻撃表現)として使われたことがあったのかもしれないし、また今日ネット上では朝鮮人に対する蔑称として――バカチョンカメラ騒動から逆輸入されて?――しばしば使用されることも事実である。しかしそうした事実は、バカチョンが自明の蔑称として昔から日常的に使われ続け、ついにはカメラの通称にまで使われるようになった、ということを意味しない。
「バカチョンとは日本社会に昔から根づいている差別用語で、カメラの通称にも使われるくらい日本人の朝鮮人に対する差別は日常的なことだったのだ」などと「ヘイトスピーチ」する人がいるが、そういう嘘はそろそろ止めてほしいと思っている。
(終)

*1) ドラえもんには「自動コジ機」(現在は欠番)など差別的な名称を持つ道具も存在する、そうである以上、サウンドバカチョンの存在を以て差別用語ではないという理屈は成り立たない――という反論があるかもしれない。しかしまず「乞食」自体は単なる名称であって差別「表現」ではない。仮にバカチョンが「バカな朝鮮人(でも使えるカメラ)」を意味(表現)する言葉だとすれば、それは「乞食」以上の、それ自体で完全に差別的で攻撃的な表現ということになるが、もしそうだとしたら藤子不二雄が道具名に使うはずがないと筆者は思う。ゆえに「バカチョン」は(原義としては)差別用語ではありえないのである。
筆者は「自動コジ機」もリアルタイムで読んでいる人間だが、あくまで怠け者ののび太を戒めるための道具であって、生活困窮者を蔑視するような(それを助長するような)攻撃的表現だとは思わなかった。それとこれとは別だという読み方ができていたと思う。ドラえもんの秘密道具は基本的にのび太の自戒を促すためのものであって、誰かを攻撃するような性質のものではない。 「自動コジ機」については、その描かれ方が当事者から見ると辛いものなので欠番という判断もありうると思うが(ただその判断に完全な同意はしない)、サウンドバカチョンはそういう次元のものですらない。