徐京植(1951-)。在日朝鮮人作家。在日二世。
徐京植 『皇民化政策から指紋押捺まで』 (岩波書店、1989)
皇民化政策
1910年の「日韓併合」後、日本帝国主義の朝鮮植民地支配における基本方針は「同化政策」でした。これはもちろん異なった二つの民族が台頭に同一化することではなく、朝鮮民族の文化的伝統、言語、風俗、習慣のことごとくを「遅れたもの」「劣ったもの」として否定し、日本へ呑み込んでしまおうとする民族抹殺政策です。被支配者の人間的な矜持の拠りどころそのものを破壊する、人間性破壊政策と呼ぶこともできるでしょう。
1911年、「教育勅語」にのっとった「朝鮮教育令」が制定され、「忠良ナル国民」を育成することが朝鮮人教育の「本義」とされました。この教育令に基づいて設立された公立学校では、日本語が奨励され、朝鮮語・漢文の授業時間は制限され、朝鮮の地理・歴史は教えられず、日本のそれが教えられました。それと同時に、朝鮮人独自の教育を行っていた書堂(寺子屋)や私立学校は抑圧され、私立学校数は三分の一ないし四分の一に激減しました。
このような、天皇統治を正当化し、民族意識を衰微させる政策は、36年間の植民地支配を通じて一貫したものでしたが、1936年8月に就任した第七代朝鮮総督南次郎は従来からの同化政策を、侵略戦争計画と結合した独自の政策として、極限にまでおし進めました。これが、いわゆる「皇民化政策」です。(29頁)
日本語教育
(前略)また「国語(日本語)常用」が進められ、1943年からは「国語普及運動」が大々的に展開されました。役所などでは日本語でなければいっさい相手にされず、陳情書も日本語でしか受けつけられず、学校では朝鮮語を使うと罰を受けたり減点されたりしました。このような日本語強要=朝鮮語抹殺政策の結果、日本語を解する朝鮮人の人口は、1923年に全人口の4.08%、38年に12.38%、43年には22.15%に増加しました(「やや解しうる者」を含む)。
1942年から43年にかけて、朝鮮語の編集にとりかかっていた朝鮮語学会の会員33人が治安維持法で検挙され、二人が拷問のため獄死されられました。このため朝鮮語辞典の編集は、日本敗戦後まで中断させられました。(32頁)
創氏改名
1939年11月、朝鮮民事令が改定され、朝鮮民族固有の姓名を奪って、これを日本式の氏名に統一する「創氏改名」が強要されました(1940年2月18日実施)。日本帝国主義は「創氏改名」を「一視同仁の大理想を具現する」ものであり、「大和大愛の発露」だと喧伝しつつ、施行にあたっては官憲を動員して強制しました。
創氏改名しない人は、たとえば、子どもが学校に入学できない、官公署などの機関に採用されない、行政機関が事務と取り扱ってくれない、荷物を鉄道や郵便が取り扱ってくれない、「非国民」「不逞鮮人」として警察に日常的に監視・いやがらせをされる、食料・物資の配給対象から除外される、「徴用」(強制連行)の対象者にされるなど、あらゆる圧迫をうけました。朝鮮総督府の命令で、末端の派出所にいたるまで警察が創氏改名の強要に動員されました。
こうして、結局、朝鮮人のおよそ八割が創氏改名に追いこまれたのです。(33頁)