田中明

田中明(1926-2010)は日本の韓国・朝鮮学者。

田中明『韓国の民族意識と伝統』より

「いい日本人」に化けたくない ―― 序に代えて 1982.12

私は小学校と中学校の11年間をソウル(当時は京城といっていた)で過ごした。まさに植民者の息子である。解放後の韓国を訪れたのは1965年が最初で、これは私のその後に大きく響くこととなった。帰国した私は、あわてて朝鮮語を学び始め、やがて朝鮮研究が生活時間の主要部分を占めることになったからである。

なぜ、こんなことになったかを自分で説明するのは難しいが、強いていえば、あの韓国行きによって、自分のなかに大きな空洞があることを知ったからといえよう。11年という決して短くはない時間を、あの地のどまん中で暮らしていたにもかかわらず、そこの自然も人間も何一つしっかり見ていなかったことに気づいて私は狼狽した。

言いわけはいろいろあった。幼少年期の私は、個人的な事情があって、朝鮮からの脱出ばかりを考えていたから、それが周囲を見つめる目を育てさせなかったのだ――等々。だが、もし私が植民者側の人間でなかったら、たとえ幼いとはいえ、そんな周囲を無視するような態度など許されはしなかったであろう。植民者の息子だったからこそ、そういう傲慢な怠惰が許されたのである。これはかなり痛い認識であった。

とはいっても、そうした自分の思いを、いわゆる「日帝三六年に対する反省」といった美しい言葉に近づけていこうという気持ちには全くならなかった。そんなことをすれば、自分が「いい日本人」に化けてしまい、こんどは〝良心的怠惰〟に安住することであろうことは目に見えていたからだ(ぺらぺらと心地よく朝鮮に対する贖罪の言葉を連ねる、といった類の人を私はよくみてきた)。私は何よりもまず何も見ていなかった幼少期の空白部分を埋めなければならなかった。

それに朝鮮を日本との関係という角度からばかり見ては、あの国をひどく痩せたものしてしまう、という気持ちが私にはある。「日帝三十六年」が途方もなく強力だったようにいうのは日本人の思い上がりで、実際は朝鮮民族のエトスの核心的な部分には、何の変改も加えることができなかった。今日の韓国を見れば、血統に対する宗教的ともいえるような帰依感など、伝統の重みはひしひしと感じるけれども、「日帝三十六年」のほうは、せいぜい法律や小道具類の用語に残っている程度である。それらは日本で氾濫しているカタカナ外来語と同じ意味しかない。「日帝残滓」の最たるものは花札で、花闘と呼ばれるこの遊びは韓国の津々浦々で行われていて名手も多いが、若い人など、これが日本渡来のものとは思っておらず「わが国固有の遊び」だと日本人に腕自慢を披露してくれたりする。韓国をそこで支えているのは、こうした人びとであろう。

政治は常に波乱を重ねているが、それが論じられるとき、右のような人たちがいつも消え去ってしまう。そのために韓国や北朝鮮の政治論には、いつも地面から浮き上がったフィクションのような気味がある。おそらくその原因は、われわれがかの地の政治・社会の実態を正確に言い表す理論や思想を創りえていないところからくるのではなかろうか。それを理解しようとして用いる「封建制」とか「民主主義」といった概念や施行の枠組みはいずれも西洋製のものであり、朝鮮の(広くいってアジアの)状況を過不足なく表すには適さない。そのために誤算した先進国が、痛い目に遭っているのが現代である。ベトナム戦争などはその一例であろう。日本がアジアの一員であるならば、アジアのリアリティをすくい上げる理論を創出する努力がなされてもいいのではないか。(1-3頁)

(引用者注:戦後「朝鮮人」という言葉が侮蔑的で使いにくかったときに、総連系の人が「ぼくたちは朝鮮人ですよ。だから朝鮮人と呼んでください」と胸を張って言っていたという文脈で)こうした態度は「われわれは日本人とは違う。日本人と同一視するな」ということを強調するもので、戦前の日本が朝鮮人の皇民化というスローガンのもとに、朝鮮語を禁止したり日本名を強要したこと(創氏改名)に対する反感を受け継いだものである。「同化主義反対」が彼らの合言葉であった。
田中明(韓国・朝鮮研究者) 『諸君!』1991年2月号 ~鄭大均『姜尚中を批判する』223頁

※資料の二番目>田中のような「植民地支配」を経験している世代が、1991年の時点で、創氏改名や日本語強制政策についてこのような誤解をしているという事実は注目に値する。(もちろん誤解ではなく、田中の方が正しく歴史的事実を述懐しているという見方もありうるだろうが)
なおWikipediaによると田中は現地で旧制中学を卒業しているので、1943年か44年まで現地にいたことになる(?)。